悲劇の独ソ戦。死ぬまで行進③-2

捕虜になっても逃亡しても殺されるのだと知った両軍の兵士たちは、どんなに絶望的な状況に追い込まれようとも徹底抗戦し、戦場はまさに地獄の様相を呈していた。

戦闘が長期化するに従い、膨大な予備兵力を持つソ連が徐々に攻勢を強めるようになった。戦地に増援を次々と送り出し、砲兵や航空機によって敵の最前線から後方までを同時に制圧する「縦深戦」を展開し、一気に形勢を逆転したのだ。

形勢の逆転によって始まったのが、ソ連軍による報復だ。特に捕虜となったドイツ兵の扱いは常軌を逸しており、食料も与えぬまま、死ぬまで徒歩で長距離行軍させるなど、非人道的な蛮行が繰り返された。

「ドイツ兵捕虜は、収容所に入ってからも、破壊された建物や地下壕、天幕などで寝泊まりする状態で、重労働を強いられました。食料は水でカサ増ししたパンと、ジャガイモの皮や魚の頭、犬や猫の肉などしか与えられなかった。

夏季には野草摘みに駆り出され、それでスープを作ったものの、毒草であったため、多くの死者を出したという例もあります」

ソ連の捕虜収容所で生き残ったドイツ兵士はたったの5%に過ぎなかったという。
またドイツ兵だけでなく、ソ連国内のドイツ系住民にも、悲劇が降りかかった。

ソ連にはヴォルガ・ドイツ人をはじめとする多数のドイツ系住民がいました。スターリンは彼らに対し、シベリア、カザフスタンウズベキスタンへの強制移住を命じたのです」

70万人とも120万人ともいわれる人々が、家畜運搬用の貨車や徒歩での大移動を強制され、飢えや渇き、過剰に貨車に詰め込まれたことによる酸欠で死亡した。